そして、その頃、僕たちは

初診を終え会計を待っている間、ロビーにある椅子に腰掛ける。今日は平日だというのに相変わらず人が多い。まだ自分の番号が呼ばれるには時間がかかりそうだな、と想いながら私はスマホを開いた。

通知が何件か届いていたけれど、特に急ぎのものはないようだ。LINEを開くと、そこには、婚活で知り合った相手の名前が一番上に表示されていた。


マッチングアプリで知り合った彼とは一度食事に行った。恵比寿の中華のお店、棒棒鶏が美味しいと評判のお店だった。唇が紫色だったので、藤木くんと命名する。(リスペクトさくらももこ氏)

藤木くんは同年代で、メーカーで営業をしていると話していた。ネット婚活を始めたばかりで警戒心の強い私と、やりとりを根気よく続けてくれて、会う場所や時間なども配慮してくれた優しい男性だった。

ただ、初対面だったこともあってか、話があまり弾まなかった。お互いに緊張をしていたのかも知れないと思い、彼とはもう一度会って相性を確かめたいなと思ってる。いや、いた、の過去形が正確かもしれない。



病院のほうは、これからどうなるのか私自身、わからない。正直婚活どころではない。改めて藤木くんのことを考える。

藤木くんから次の誘いは貰っていたのだけれど、診察や検査のことが気がかりで、具体的な日程を決めることが出来なかった。アラフォーの私達には、時間が何よりも大切なはず。



私は意を決して藤木くんにメッセージを送る。紳士的な態度で接してくれた相手なので、私もそのように返そう。今、病気の疑いがあること、検査がしばらく続くこと、よって婚活を出来る状態ではなくなってしまったこと。
お誘いは受けられない旨を謝罪とともに伝えた。



その日は有給を貰っていたので、会計を終えたあとはそのまま帰宅した。待ち時間が長かったこともあり、病院から出た途端、生暖かい空気が私を包み、初夏だというのに曇り空のせいかやけに薄暗く感じる。

「ただいまー」

誰に伝えるでもない言葉を言い、家の電気をつけた。自宅の机の上には、今度受験する資格の参考書がそのまま広がっている。ここ数日は手に取ることもなかった。乳がんを調べることの優先順位が今、私の中で一番高いからだ。部屋着に着替えると、そのままベッドに横になった。

診察を振り返る。ミーコ先生の言動から察するに、やっぱり癌の可能性が高いということだろか。ミーコ先生とは相性が良さそうだからよかったけど。



少し休むだけのはずが、診察で疲れていたのか、気が付いたら眠ってしまっていたらしく目が冷めた時には、窓の外はすっかり暗くなっていた。

冷たくなった洗濯物を慌てて取り込み、のろのろと机の上の書籍を片付けた。そして病院の帰り道で買ってきた、知らないお店のお弁当に手を伸ばす。いつもより少し奮発して購入した「オーガニック野菜を中心としたお弁当」は、店頭で見かけたときよりも美味しそうには見えない。



ーこんな時でもお腹は空くんだもんなあ。まあ、癌って言われてもピンとこないし。
そうだ、姉に病院が終わったことを知らせないと。

私は姉には病気の疑いがあることを伝えていた。3つ年上で、結婚して地方都市に住む姉は、きっと大丈夫だと励ましてくれたけど、癌の確率が4割であることはまだ伝えてはいなかった。姉にはラインで無事に初診を終えたことを簡潔に伝える。これで、よし。



お弁当をレンジで温めながら、お湯を沸かしていると、スマホの通知が見えた。藤木くんだ。私は、あまり味のしないお弁当を食べ終えてから、藤木くんのラインを開いた。

大丈夫ですか?大変な時に連絡ありがとう。
食事の件気にしないでいいので、今は通院に専念してください。
もし、いちこさんさえ良かったら僕は待つので、
落ち着いたらまたお茶でも行けたら嬉しいです

そして、体の無事を祈る文面が続いていた。卑怯どころか、彼はとても優しい人だった。藤木くんと私のことについて少し考える。彼とは一度しか会っていない。相性も今の段階では正直わからない。お互い、真剣に活動をしているのだということはよくわかっている。

もう一度ラインをしよう。相手がはっきり次に進めるように。



とても有り難いけれど、この先がどうなるかわからず、待たせてしまうのが申し訳ないこと、先に進んでほしいことを、何度か自分の作った文面を読み直した後、送信した。

しばらくすると、彼から返信が届く。食事に行けない件は了承してくれたようだった。ほっとしたところに、二通目のメッセージが届く。そこには、婚活には関係なく、私のことが心配なので時々連絡をさせて欲しい、と書かれていた。

病気が病気だったのでかえって伝えたことで心配をかけてしまったかも知れない。流石に彼の申し出まで断ることは出来なかったので、私はありがとうと返事をして、スマホから手を話した。

その勢いで、今度はPCを立ち上げる。絶賛春の婚活まつりの真っ最中の私は、アプリやサイト経由で十数人とやりとりとしていて、実際にそのうち数人とは会う約束をしていた。そして会っている人は藤木くんの他にもいた。

詳しい事情は触れず、やり取りをしている人には、婚活を続けることが難しくなってしまった事を謝罪した。こない連絡を待つのはつらいからだ。

私の連絡に対して、わかりましたと返事をくれた人もいたし、そのまま返信がない相手もいた。それはそれでいいと思う。婚活なのだから。

そしてーーー再びラインを開く。直接やりとりをしていて、これまでに3回会った、この人にどう伝えるか考えた。

彼は同年代の、インフラ関係のエンジニアだった。環境的になかなか女性との出会いがなく、先輩に進められてアプリに登録をしたらしい。

彼のことは、眼鏡をかけていたので、婚活界隈に沢山いるだろう、メガネさんと呼ぶことにする。カタカナにしたのは差別化でもなく、ただなんとなく。

彼とは近いうちに映画に行く約束をしていた。どうしようか。別に映画くらいは出来ないことはない。そもそもこの映画に行く話も、私がとある資格試験を来月受ける予定あったので、今すぐではなくそれが終ったらの話でもあったからだ。

メガネさんのことは人として好きだけれど、男性として好きまではまだ至っていない。何度か会うことで前よりは親しくなってはきたと思う。正直自分でも決めかねていた。ただ、試験の後もおそらく通院は続く。何より精神的に映画を楽しめる余裕は今の自分にはない。先の約束を出来ない自分がいる。

私は乳がんの病名までは触れず、会社の検診で少し大きな病気の兆候があり、検査のためにしばらく通院が続きそうだということをラインでメガネさんに伝えた。約束には言及しなかった。

しばらくして、メガネさんに送ったラインは既読になった。気がついたらもう9時近くになっている。お風呂に入って髪の毛を乾かしている間も、気になったのでスマホを何度も見た。まだ何も連絡はない。

もしかしたら、詐欺だと疑われてしまったのかも知れない。それとも、おかしい文章があっただろうか?そんな事を考えていると、もう11時を過ぎていた。返事に困らせてしまったのだろう。翌日の身支度をしていると、メガネさんのアイコンが見えた。

こんばんは、お仕事お疲れ様です。
知らせてくれてありがとう。いずれにせよ大変かと思いますが大事にならないといいですね。

前にいちこさんから教えてもらった試験、先日受かりました。アドバイスありがとう。
いちこさんとのことは、僕にとって意味のある出会いでした。ありがとう。


メガネさんのラインに胸が騒ぐ。そうか、断り文句だと伝わったのかもしれない。それとも、病気はやっぱり嫌だったのかも。



どう返事をしよう。おめでとう、の後に全て打ち明けて甘えてしまいたい気持ちもあった。それでも彼は私の家族でも友達でもない。三回会っただけでまだそこまで進展していない相手。巻き込んでどうなる?人生は決断の連続だ。彼の真意はわからない。わかっているのは彼の文面から、「さようなら」ということ。

私は結局、そのラインには返信をしなかった。

再びベッドに飛び込む。ああ、何もなくなってしまった。それでも私は知っている。これまでの経験から、何度でも立ち上がることが出来るのだ、元気にさえなれば。

今すぐは無理でも、落ち着いたら再び婚活をしよう。だから大丈夫だ。なかなか眠りにはつけないかもしれない。それでも、きっと、多分、おそらく、大丈夫だ。

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